THE TYRANNY of STRUCTURELESSNESS(翻訳)

THE TYRANNY of STRUCTURELESSNESS

「構造を持たない」というイデオロギーによる支配

by Jo Freeman aka Joreen

著者:ジョー・フリーマン(別名ジョリーン)

この論文の初版は、1970年に米国・ミシシッピ州ビューラーで開催された「南部の女性の権利連合(Southern Female Rights Union)」の会議で、講演という形で発表された。元々は書籍「3年目の手記(Notes from the Third Year)」(1971年)のために執筆したものだったが、編集者に採用されなかった。その後、社会運動に関するいくつかの学術雑誌に応募したが、一誌しか掲載許可を取らず、その他の雑誌は許可を取らずにこの論文を掲載した。正式に最初にこの記事が掲載されたのは、The Second Wave Vol.2、No.1(1972年)だった。初期の著者は、ジョリーンだった。その後、ジョー・フリーマンを著者とした異なるバージョンがBerkeley Journal of Sociology、Vol. 17(1972〜73年、151〜165ページ)とMs. magazine(1973年7月、76〜78ページと86〜89ページ)に掲載された。この記事は世界中に広がり、たくさんの人が、多くの場合は無断で、雑誌、書籍、ウェブサイトなどのために「暴政(tyranny)」を編集し、転載し、切り取り、翻訳してきた。本論文は、上記で言及した三誌をまとめたものだ。

女性解放運動が形になりつつあった時期から、いわゆるリーダーがいない、構造を持たないグループが、運動の主な–––もしくは唯一の–––組織的な形態として強調されてきた。この考えの源は、私たちの多くが直面する構造化されすぎた社会、そんな社会が必然的に生む、他人による私たちの人生や生活の支配、そしてこの超構造化に抗っているはずの左派や類似グループによる、絶えないエリート主義に対する自然な反応だった。

しかし、「構造を持たない」という考えは、構造化に対する健全な抵抗から、それ自体が神格化されつつある。この考えは、女性解放イデオロギーに内在する絶対的な一部となり、頻繁に使われているからこそ深く吟味されることがなくなった。これは女性解放運動の初期の発展においては、あまり問題ではなかった。女性解放運動は、初期にコンシャスネス・レイジング(※意識変革)を主な目的および手法と位置付け、「構造を持たない」グループはこのような目的を達成するには優れた手段だった。そのようなグループは柔軟さや気さくさを生み出し、それによって参加者は積極的に議論に参加することができ、お互いを支え合う雰囲気が作り出されたことで、個人的な知見を共有しやすくなった。そのようなグループの具体的な成果が個人的な知見のみであっても、そもそもグループの目的がそれ以上のものではなかったため、特に問題ではなかった。

根本的な問題は、各グループがコンシャスネス・レイジングの長所を使い果たし、より具体的な行動をしたいと決断した時に初めて発生した。大半のグループはタスクの変遷に合わせて組織構造を変えることを拒んだため、この時点で崩壊した。女性たちは「構造を持たない」ことを全面的に受け入れてしまい、この考えが、具体的な行動や実践の妨げになっていることに気付いていなかった。「構造を持たない」グループ以外は全て抑圧的だという盲信に基づき、多くの人が「構造を持たない」グループや非公式な会議を、それらに適さない目的のために使おうとした。

女性解放運動が、このような初期の発展ステージを超えていくためには、組織と構造に対するいくつかの偏見を解かなければいけない。組織化されていることも、構造化されていることも、どちらも本質的に悪いことではない。この二つが悪用されることはあり得るし、実際よくあることだが、悪用されているからといって容易に拒絶してしまうと、私たちのさらなる発展のために必要なツールを拒むことになる。私たちは、なぜ「構造を持たない」ことが機能しないのか、理解しなければならないのだ。

公式・非公式な諸構造

信じがたいことかもしれないが、構造を持たないグループなんて存在しない。いかなる性質の人でも、ある目的のために一定期間集まれば、グループとして必然的に何らかの形で構造を持つようになる。この構造には柔軟性があるかもしれない。時間が経つにつれて変化するかもしれない。そして、タスク、権力、資源のメンバーへの分配は、均等に行われるかもしれないし、不均等に行われるかもしれない。しかし、メンバーの能力、性格、意図に関係なく、そのグループは構造化される。私たちが個人であり、異なる才能、素質、背景を持っているが故に、これは避けられないことだ。メンバー同士が関係を持つことや交流することを拒否すれば、構造を持たないグループに似せることができる。しかしこれは、人間から成るグループの性質に反している。

したがって、構造を持たないグループを目指すことは、「客観的な」ニュース、「価値判断をしない」社会科学、または「自由」経済を目指すことと同じくらい、役に立たず、欺瞞でしかないということだ。「自由放任主義」を掲げるグループは、「自由放任主義」な社会くらい現実性がないのである。つまりこの考えは、強者、もしくは運が良い人々が他者に対して覇権を行使するための煙幕と化す。この覇権がいとも簡単に確立されてしまうのは、「構造を持たない」ことが公式な構造化を阻止する一方、非公式な構造化を阻止することはできないからである。同じように、「自由放任主義」思想は、政府による賃金、価格、モノの分配の支配を防いだものの、経済力を持つ人々によるそのような支配を防ぐことはなかった。よって、構造を持たないことは権力を隠蔽する手段となり、女性解放運動においては通常、最も権力を持っている人々(その人々がそれを自覚しているかにかかわらず)が最も強く主張してきた。グループの構造が非公式である限り、一握りのメンバーしか意思決定に関するルールを知らず、そのメンバーたちだけがグループ内の権力のあり方を認識している。このメンバーに選ばれなかった人や、ルールを知らない人は混乱の渦にとどまる、もしくは自分にはよく分からないことが起きているという猜疑心に苛まれることを余儀なくされる。

全員がグループに参加し、活動に関わる機会を得るためには、グループの構造は暗黙の了解に基づくものではなく、明確でなければならない。意思決定に関するルールは全てのメンバーに対してオープンで明確でなければならないのである。これは、ルールが公式化されない限りできないことだ。グループの構造を公式化することで、非公式な構造が破壊されるわけではない。通常、そのようなことは起きない。しかし、構造を公式化することによって、非公式な構造による有力な支配を妨ぐことができる。また、メンバーがグループ全体のニーズに対して最低限の責任さえも負わない行動をしている場合に、非公式な構造を批判する手段ができることも確かである。「構造を持たない」ことは、組織的に不可能なのだ。私たちは、グループが構造を持つかどうかを決めることはできない。決めることができるのは、その構造を公式なものにするかどうかだけだ。よって本論文では、「構造を持たない(structurelessness)」という言葉を、それが表す概念という意味以外では使わない。「非構造化(unstructured)」は、意図的に、ある特定の方法で構造化されていないグループを指す。「構造化(structured)」は、意図的に構造化されているグループを指す。構造化されているグループは必ず公式な構造を持ち、加えて非公式もしくは内密な構造を持っている場合もある。特に非構造化されているグループにおいては、この非公式な構造がエリートたちの基盤となる。

エリート主義の性質

「エリート主義者(elitist)」は、女性解放運動において最も乱用されてきた言葉に違いない。これは、1950年代に(訳注:左派を指す言葉として流行った)「pinko」のように頻繁に、そして同じ理由で使われている。「エリート主義者」という言葉が正しく使われることはほとんど無い。女性解放運動においては一般的に、個人を指す言葉として使われているが、それが指す個人の性格や活動は大幅に異なる。そして、個人が個人としてエリート主義者になることは不可能なのだ。何故かというと、「エリート(elite)」の正しい適用は、グループを指すからである。ある人がどんなに有名だとしても、個人がエリートになることはできない。

正しくは、エリートとは、大きなグループに対して権力を握っている、そのグループの一部を意味する。通常、この一部のグループは、大きなグループに対して直接的な責任を持たない。さらに、グループ全体はこの一部が全体に対して権力を握っていることを認識していない、またはそれに同意していない。このような小さなグループに参加すること、もしくはこのグループによる支配を支持することによって、個人はエリート主義者になる。この個人が有名かどうかは関係ない。知名度や悪評は、エリート主義者の定義とは関係がない。実際、最も陰湿なエリートは、公衆に全く知られていない人々が動かしている。賢いエリート主義者の人々は、賢いが故に認知度が上がりすぎないようにしている。認知度が上がってしまうと、人々から監視され、いままで握っていた自分たちの権力を隠すための煙幕が薄まってしまうからだ。

エリートたちは、企まれた陰謀ではない。個人が集まって小さなグループを作り、自分たちのために意図的に大きなグループを支配しようすることは非常に稀である。エリートたちは、たまたま同じ政治的な活動に参加することになった友人から成るグループであり、それ以上でもそれ以下でもない。同じ政治的な活動に参加しているかにかかわらず、エリートたちは友人として付き合いを続けるだろう。そして、友人としての付き合いを続けるかにかかわらず、同じ政治的な活動に関わり続けるだろう。友人としての付き合いと、同じ政治的な活動への関わりの二つの偶然が重なることで、どのようなグループにもエリートが生まれ、崩しがたい存在になっているのである。

このような友人グループ(friendship group)は、グループが設定した正規のコミュニケーション手段から外れたコミュニケーション・ネットワークとして機能する。正規のコミュニケーション手段がない場合は、唯一のコミュニケーション・ネットワークとして機能する。友人グループは友人同士であることから、同じ価値観や物事に対する姿勢を持つため、そして、普段から連絡を取り合い、共同決定が必要な際にも相談し合っているため、友人ネットワークに属する人々は属さない人々に比べてグループ内でより大きい権力を持っている。また、グループ内の友人同士が何らかの非公式なコミュニケーション・ネットワークを作らないことは稀なのである。

グループの大きさによって、このような非公式なコミュニケーション・ネットワークを二つ以上持つグループもあるかもしれない。そして、これらのネットワークは重なり合うことすらあるかもしれない。そのようなネットワークが一つしかない場合、参加者がエリートになりたいかどうかは関係なく、それは非構造化されたグループのエリートなのだ。構造化されたグループでそのような唯一のネットワークがエリートになり得るか否かは、グループの構成や公式的な構造の性質による。そのような友人ネットワークが二つ以上ある場合、グループ内で権力争いになる可能性があり、派閥を作ったり、一つのネットワークが意図的に競争から脱落し、残りの一つをエリートにすることもある。構造化されたグループでは、通常、二つ以上の友人ネットワークが公式な権力を巡って争う。他のメンバーは、権力を巡って争う二つのネットワークの競争に入って仲裁する立場になり、一時的に味方になるネットワークに対して物事を要求をすることができるからだ。これは多くの場合、最も健全な状況だ。

友達付き合いに基づく非公式なコミュニケーション・ネットワークは、不可避的にエリート主義かつ排他的な性質を持っているため、これは女性解放運動において新しい現象でもなく、女性にとって新しい現象でもない。そのような非公式な関係が、何百年にもわたって女性たちを様々なグループから排除してきたからだ。どんな職業や組織においても、このようなネットワークは「ロッカールーム」精神や「昔からの」繋がりを生み出し、集団としての女性が(そして一部の男性個人もが)権力の源や社会的な利益に平等にアクセスすることを実質的に阻んできた。実際、女性が排除された場合に真っ向から反対できるように、女性解放運動は意思決定と選定プロセスの構造を公式化することに多くのエネルギーを費やしてきたのだ。私たちがよく知っているように、そのような努力によって、男性のみの非公式なネットワークによる女性差別を防ぐことはできなかったが、そのような差別がより困難になったことは事実である。

エリートたちが非公式だからといって、その人々が目に見えないわけではない。どんなに小さなグループのミーティングでも、鋭い目と耳を持っていれば、誰が誰に対して影響力を持っているのか分かる。友人グループのメンバーは、他の人よりもお互いに対してより親密で、理解し合う傾向がある。エリートたちはお互いの言葉に耳を傾け、話を遮ることが少なく、お互いの意見を繰り返し、穏便に相手の意見を受け入れ、意思決定において承認を必要としない「外部」の人の意見を無視したり、それに抵抗する傾向がある。しかし、「外部」の人は「内部」の人と良い関係を保つ必要がある。もちろん、私がここで描いたほど「外部」と「内部」の線は明確ではない。これらのやりとりにはニュアンスがあり、事前に台本が書かれているわけではない。ただ、これらのやりとりは実際に起きており、影響力を持っている。意思決定の前に誰と確認することが重要なのかが分かれば、そして、誰の承認を受ければ受け入れられたことになるのかが分かれば、誰がこのグループを動かしているのかが分かるのだ。

女性解放運動グループは、グループ内で誰が権力を行使すべきかという問題に対して具体的な決断をしてこなかったため、国内各地で様々な基準が使われている。それらの基準のほとんどが、伝統的に女性的な特徴に沿ったものだ。例えば、女性解放運動が始まった当初は、一般的に、結婚していることが非公式なエリートに加わるための必須条件だった。従来から女性が教えられてきたのは、既婚女性は第一に他の既婚女性に親しみを感じ、独身の女性は親しい友人にするにはあまりにも脅威的であるということだ。この基準は多くの都市でさらに純化され、新左翼(the New Left)の男性と結婚している女性のみに絞られた。しかし、新左翼の男性と結婚しているという基準の背景には、伝統的な価値観以外の要因もあった。多くの新左翼の男性は、女性解放運動に必要だった資源–––メーリングリスト、印刷機、連絡先、情報等–––を入手することが可能であり、女性は自主的にこれらの資源を入手するのではなく、男性を通じて必要なものを手に入れることに慣れていたのだ。女性解放運動は時とともに変化し、結婚は活動に参加するための普遍的な基準ではなくなってきた。しかし、全ての非公式なエリートは、特定の物質的または個人的な特徴を持つ女性のみが参加できる基準を設定している。これらには例えば、(よく耳にする、労働階級に寄り添っているというレトリックに反して)中流階級出身であること、結婚していること、結婚はしていないが同棲していること、レズビアンであること、またはレズビアンであると見せかけていること、20歳から30歳であること、大学を卒業していること、または少なくともある程度の大学経験があること、「しゃれ(hip)」ていること、「しゃれ」すぎていないこと、「ラディカル(急進派)」のような特定の政治的な路線もしくは所属意識を持っていること、子どもがいること;もしくは少なくとも子どもが好きなこと;子どもがいないこと;「優しい(nice)」など特定の「女らしい(feminine)」性格の特徴を持っていること;適切な服装をしていること(伝統的なスタイルもしくは非伝統的なスタイルにかかわらず)等がある。また、ほとんどの場合、関係性を持たないほうがよい「逸脱者(deviant)」とされる特徴もある。例えば、歳をとりすぎている;フルタイムで働いている(特に、「キャリア」に積極的に尽力している);「優しく」ない;公然と独身であること(つまり、異性愛者または同性愛者として積極的にパートナーを作っているわけではないこと)等がそのような基準に含まれる。

さらに他の基準を含むこともできるが、これら全てには共通項がある。女性解放運動の非公式なエリートに参加するための必須条件となる特徴、したがって権力を行使するための必須条件となる特徴は、個人の生まれ育ち、性格、または活動への時間の使い方に関するものなのだ。個人の力量、フェミニズムへの献身、才能、または運動に貢献する可能性は含まれない。前者は、一般的に、自分の友人を選ぶ際に使う基準であり、後者は、社会運動や組織が政治的な効果を発揮するために使わなければいけない基準である。

グループによって参加の基準は異なるかもしれないが、その基準を満たすのならば、非公式なエリートのメンバーになる手段は、どのグループも極めて同一である。唯一の主な違いは、その人が初めからグループにいるかどうか、もしくはそのグループが始動した後から参加したかどうかによって決まる。もし初めから参加するのであれば、個人的な友人をできる限りたくさん参加させることが重要だ。もし誰も他の人をよく知らないのであれば、限られた人々と意図的に交友関係を結び、非公式な構造を作るために欠くことのできない非公式なやりとりのパターンを確立しなければならない。一度非公式なパターンが形成されれば、それらは自らを維持するように機能する。そしてそれらを維持する上で最も有効な戦術の一つは、「とけ込むことができる」新しい人々を継続的にリクルートすることなのだ。こうしたエリートに参加する方法は、女性の社交クラブ(sorority)に入会する方法とそっくり同じである。もし参加する見込みがあるとみなされれば、非公式な構造のメンバーによって「メンバーとなるべきか見定めるために歓待」され、最終的にはやめさせられるか、加入させられる。もしこの社交クラブが、このプロセスそのものに積極的に関わるほどには政治的な意識を持たないのであれば、社交クラブはプライベートクラブに参加するのと同様のやり方で、第三者が開始することもできる。スポンサーを見つけるのだ。つまり、エリートの中でも特に尊敬されているように見えるメンバーを探し、その人と交友関係を積極的に育もう。最終的に、彼女はあなたを組織内で実権を握る少数集団へと導くだろう。

これら全てを進めるには時間がかかる。そのため、フルタイムで働いている場合や、フルタイムの仕事のような大きさの責任を抱えている場合は、通常エリートに参加することは不可能だ。というのも、単にミーティング全てに参加したり、意思決定で発言力を持つために必要な個人的関係を育んだりする時間が十分にないからである。そのため、意思決定の公式な諸構造は、過度に働く人を利するものとなっている。意思決定のための確立したプロセスを持つことは、完璧ではないにしても全員が意思決定に参加することを保証するのだ。

小グループ内のエリート形成プロセスを解体することは、大局的に見て決定的に重要であるが、しかしこれは、これらの非公式な諸構造が不可避的に有害であるという信念に基づいているわけではない。ただ、これらの非公式な諸構造の成立は避けられない、という考えによったものである。全てのグループは、メンバーの間での関わり方の結果として、非公式な諸構造を作る。このような非公式な諸構造は非常に役に立つこともある。しかし、構造化されていないグループだけが、そうした非公式な諸構造によって完全に支配されてしまう。非公式なエリートが「構造を持たない」ことの神話と組み合わさった時、権力の行使を制限しようとする動きはグループ内に存在できなくなる。権力の行使は恣意的なものとなるのだ。

私たちは、これがもたらす二つの潜在的な悪影響を認識すべきである。一つは、意思決定の非公式な構造は多分に社交クラブのようなものになるということだ。そこでは人々は他のメンバーが好きだからこそ、その話を聞くのであって、重要なことを言っているから聞くのではない。その運動が重要なことをしていない限り、これはそこまで問題ではない。しかし、もしその運動の発展を初期段階に留めたくないのであれば、こうした傾向を変えなければならない。二つ目は、非公式な諸構造は、そのグループ全体に責任を持つ義務がないことだ。非公式な諸構造の権力は、グループ全体によって託されたものではないため、その権力を取り除くことができない。非公式な諸構造の影響力は、グループ全体のために行っていることに依拠しているわけではない。そのため、この影響力をグループ全体が直接的に方向づけることもできないのだ。このような状況で、必ずしも非公式な諸構造が無責任なものになるとは限らない。影響力を維持したいと思う人は、通常責任を持とうとする。グループは単に、責任を持つことを強制できず、責任を持つか持たないかはエリートの関心に左右されるのだ。

「スター」システム

「構造を持たない」という考えは「スター」システムを作り出してきた。私たちが生きる社会では、政治グループが意思決定をし、また政治グループがその決定事項を一般の人々に説明する人を選び出すことが想定されている。報道機関も人々も、女性という存在としての個々の女性の話に真剣に耳を傾ける方法を知らず、女性全体がどのように考えているのかを知りたがる。大規模集団の意見を確立するために発展してきた方法は、三つしかない。それは、投票ないし国民投票、世論調査、そして適切な会議でのグループの代弁者の選出である。女性解放運動は、一般の人々に何かを伝える際、これら三つのどの手段も使ってこなかった。女性解放運動全体でも、その中の多様なグループとしても、様々な問題に関する彼女たちの考えを説明する方法を確立しては来なかった。しかし、一般の人々は代弁者を求めるものなのだ。

女性解放運動は、代弁者を意図的には選んでいない一方で、様々な理由から世間の目を引く多くの女性たちを輩出してきた。これらの女性たちは特定のグループも確立された意見も代表していない。彼女たちはこれを知っているし、通常はそのように話す。しかし、報道機関がある問題についての運動の意見を知りたい時に、質問できる公式な代弁者も意思決定組織もないが故に、これらの女性たちは代弁者として捉えられる。そのため、彼女たちが望もうが望むまいが、運動がそれを好もうが好むまいが、公に目を引く女性たちは初めから代弁者の役割を課されてしまうのだ。

これは、「スター」としてレッテルが貼られた女性たちにしばしば向けられる怒りの主な原因である。彼女たちは、運動の意見を代表するために運動内部の女性たちによって選ばれているわけではないが故に、報道機関によって彼女たちが運動を代弁しているとみなされると、怒りの矛先を向けられるのだ。しかし、運動がそれ自身の代弁者を選出しない限り、そのような女性たちは、彼女たちの望みとは関係なく、報道機関や一般の人々によって、そういった役割に位置づけられてしまうだろう。

これは、女性解放運動にとっても、「スター」とレッテルが貼られた女性にとっても、いくつかのネガティブな結果をもたらす。第一に、運動が彼女たちを代弁者としての役割に位置づけたわけではないので、運動は彼女たちに代弁者を辞めさせることができない。彼女たちを代弁者として位置づけるのは報道機関であるため、報道機関だけが彼女たちの話を聞くか聞かないかを選択できる。運動から公式に意見を出すための公認の代弁者を他に輩出しない限り、報道機関は「スターたち」を代弁者として当てにし続けるだろう。運動が一般の人々に対する代弁者を持つべきではないと信じている限り、代弁者の選定を制御することはできないのである。第二に、この立場に置かれた女性たちは、しばしば自分たちが仲間たちから酷く攻撃されていることに気づく。これは運動にとって何も成果をもたらさず、参加している個々人にとって非常に有害である。こういった攻撃は、その女性がしばしばひどい疎外感を味わいながらが運動から離れるか、もしくは「仲間」に対して責任を感じなくなるといった結果しかもたらさない。こうした立場に置かれた女性は、運動への忠誠(曖昧な定義だが)をいくらか維持するかもしれないが、もはや運動内での他の女性からのプレッシャーに左右されることはない。人は、マゾヒストでもない限り、自分にこのような痛みを与えた人々に対して責任を感じることはできないし、これらの女性たちは通常、こうしたプレッシャーに屈服するには強すぎるのだ。それ故、「スター」システムに対する反発は結果として、まさに運動が批判している類の、個人主義的な無責任を促進するのだ。運動は「スター」として仲間を追放することによって、その女性に対して持っていたかもしれないコントロールを完全に失い、その女性はそれまで非難され続けてきた個人主義に基づく罪を自由に犯せるようになってしまうのである。

政治的無力

構造化されていないグループは、女性たちに自身の生活について語ってもらうためには非常に効果的かもしれないが、こうしたグループは、物事を成し遂げるにはあまり適していないのだ。人々が「単に話す」ことに疲れ、何かをもっとやりたくなった時、彼女たちが運営の性質を変えない限りは、グループは苦労することになる。時には、発達した非公式な構造は、構造のニーズと一致する場合がある。そのニーズを満たすことができた場合、構造化されていないグループがあたかも「機能している」かのように見えるのだ。つまり、そうしたグループは偶然にも、まさに特定のプロジェクトに携わるために最適な構造のようなものを既に発展させているのだ。

このようなグループで活動することは非常に高揚を覚えるような経験ではあるが、同じ活動が再現されることはまれで、そして非常に難しい。そうしたグループの中にほぼ必ず見受けられる4つの条件がある。

1)タスク指向。構造を持たないグループの機能はとても限定的で具体的なものであり、それは例えば会議を開催したり新聞を発行したりするというようなものだ。基本的にそのグループはタスクによって構成されている。タスクが、何をすることが必要なのか、またそれをいつ行うのかを決定する。タスクによって、アクションを評価し、また将来の活動の計画を立てるための指針を作成するのだ。

2)比較的小規模で、同質であること。同質性は、参加者が関わり合うための「共通言語」を保証するために必要である。幅広く異なるバックグラウンドを持つ人々は、お互いが他の人の経験から学ぶことができ、コンシャスネス・レイジング(※意識変革)を行うグループを豊かなものにするかもしれない。しかし、タスク志向のグループのメンバーが多様になりすぎると、必ずお互いを誤解し続けるようになる。そのような多様なメンバーは、言葉や行動の解釈の仕方が異なる。そのメンバーは、お互いの行動について様々な期待を抱き、また異なる基準に基づいて成果を評価する。もし全員が全員を、一人ひとりのニュアンスを理解できるほどによく知っていれば、これらは調整することが可能だ。しかし通常、多様なメンバーとはただ、混乱の原因や、誰も考えもしなかった対立を解決するのに際限ない時間を費やす原因となるのだ。

3)高度なコミュニケーション。情報は全員に行き渡らなければならないし、意見はチェックされなければならない。仕事は分担されなければならないし、関連する意思決定への参加が保証されなければならない。これは、グループが小さく、特にタスクの最も重要な局面のためにメンバーが実質的に共に生活している場合にのみ可能だ。言うまでもないが、全員を巻き込むのに必要な関わり合いの頻度は、幾何学的に参加者の数とともに増加する。これによって、不可避的に、グループの参加者が大体5人に限定されるか、一部の決定から何人かが排除される。成功を収めるグループは10人から15人ほどの規模だろうが、しかし成功を収めるためには、次の条件が満たされていなければならない。まずは、いくつかのより小さいサブグループでそれらが構成されており、そのサブグループがタスクの具体的な部分を遂行していることである。また、異なるサブグループたちが何を行っているかということを簡単に情報交換できるように、複数のサブグループのメンバーたちが互いに重複していることだ。

4)スキルの専門化が低レベルであること。全員が全てを行う能力を持つ必要はないが、しかし、どのようなこともそれぞれ2人以上のメンバーが行えるようにしなければならない。それ故、必要不可欠なメンバーはいない。ある程度、メンバーは替えがきくようになるのだ。

これらの条件は、小さなグループにおいては運よく生じる可能性がある一方で、大きなグループには生じ得ない。その結果、ほとんどの都市での大きな運動は、個人的なグループと同じように構造化されていないが故に、具体的なタスクを行う個別のグループと効果の程はさほど変わらないのだ。非公式な構造が十分にまとまっていることは滅多にないし、また十分に人々と繋がりを保てていることも滅多にないため、効果的に作用することはできない。そのため、運動は多くの提案を生み出すが、成果に結びつくことは少ない。残念ながら、このあらゆる提案の終末は、運動の成果ほど無害ではないが、実害を被っているのは運動それ自体なのである。

いくつかのグループは、多くの人々を巻き込むことはせずに小規模に活動する場合、局所的なアクション・プロジェクトを形成してきた。しかし、この形態は運動の活動を局所的なレベルへと限定し、地域的・全国的なレベルでは行えなくしてしまうのだ。また、うまく機能するために、グループは通常、初めから取り組んでいた友人たちの非公式なグループへと自分たちを切り縮めなければならない。これによって、多くの女性が参加できなくなる。女性たちが運動に参加するための唯一の方法が、小さなグループへのメンバーシップを通じて参加することである限り、社交的でない人には明らかに不利である。友人グループが組織的な活動の主要な手段である限り、エリート主義は制度化されるのだ。

自分たちが専念したい局所的なプロジェクトを見つけられないグループにとっては、ただ一緒にいるだけという行為が、一緒にいる理由になる。グループが具体的なタスクを持たない時(そしてコンシャスネス・レイジングは一つのタスクである)、グループのメンバーは他のメンバーをコントロールすることにエネルギーを割く。これは、他者を操ろうという悪意のある願望から生じるというよりも(時にはそうであるが)、むしろ才能をよりよく使える機会がないが故に生じる。時間を持て余している有能な人々は、集まることを正当化する必要があるとき、個人に対するコントロールに努力を注ぎ、グループ内の他のメンバーの人格を批判することに時間を費やす。内部抗争や私的な権力闘争が、グループの日常的活動になるのだ。それに対し、あるグループがタスクを実行する時には、メンバーは他人をありのままに受け入れうまくやっていく方法を学び、またより大きな目的のために個人的な反感と折り合いをつけるようになる。他の全てのメンバーのあるべき姿を描き、人格を作り変えようとする衝動に対して、制限がかかるのである。

コンシャスネス・レイジングが終わればメンバーには行き場がなくなり、構造が欠如していることで、行き場を見つける方法さえ残らない。その運動の女性たちは自分や仲間のことしか考えなくなるか、他の代わりとなるアクションを探すかどちらかだ。代わりとなるアクションはほとんどない。幾人かはただ「自分の好きなことをする」。これは、個人の創造性を大きく育むことに繋がり、その創造性の大半は運動にとって有益である。しかし、ほとんどの女性にとってはそれは実行可能な選択肢ではなく、また、グループとして協同で努力をする精神を養うものではない。個々のプロジェクトを発展させたいわけではない女性たちや、興味のあるグループプロジェクトを見つけたり、参加したり、あるいは開始したりする方法を知らない女性たちは、運動から完全に出て行ってしまう。

多くの人は、構造化された、効果的な活動のようなものを提供してくれる他の政治的組織に目を向ける。これらは女性解放運動には見出せなかったものだ。こうした、女性の解放を女性が時間を費やすべき多くの問題の一つに過ぎないと捉えている政治的組織は、それ故に、女性解放運動を新しいメンバーのリクルートのための広大な基盤として捉える。このような組織が「潜入する」必要などないのだ(これは排除できないのだが)。女性解放運動それ自体が新しい着想やエネルギーの表現の手段を何ももたらさない場合、女性解放運動の一部となることによって女性が抱く、意味のある政治的活動をしたいという願望は、他の組織に参加したいと思わせるには十分なのだ。このように、女性解放運動に参加しながら他の政治的組織に入る女性たちや、他の政治的組織にいながら女性解放運動に参加する女性たちは、次々に新しい非公式な諸構造の枠組みになっていくのだ。これらの友人ネットワークは、先述したいくつかの性質よりもむしろ、共通の非フェミニズム的な政治に基づいているが、しかし非常に同質な方法で機能する。これらの女性たちは共通の価値観、考え、政治志向を共有しているが故に、彼女たちもまた非公式で、無計画で、無責任で、かつ選ばれたわけではないエリートたちになるのだ——意図しているかどうかにかかわらず。

これらの新たな非公式なエリートは、しばしば異なる運動グループ内でそれより先に発展した古い非公式なエリートから脅威であると認識される。これは正しい認識だ。このような政治志向のネットワークは、多くの古いネットワークがそうであるように、単なる「女性の社交クラブ」で終わりたいとはほとんど思わず、フェミニズム的な思想と同様に政治的な思想についても主張したいと思っている。これは自然な帰結に過ぎないが、しかし女性解放にとっての意味合いが適切に議論されることは今まで全くなかった。古いエリートはこのような意見の違いを明るみに出そうとは滅多に思わない。なぜなら、それはグループの非公式な構造の性質を暴露することに繋がるからである。

これら非公式なエリートの多くは、「反エリート主義」と「構造を持たない」ことという名目の下に隠れてきた。他の非公式な組織内構造と対抗するためには「公」になる必要があるが、この選択は危険な暗示に富んでいる。よって、自らの権力を維持するためには、その他の非公式な構造のメンバーの排除を「赤狩り」「改良主義者狩り」「レズビアン狩り」「異性愛者狩り」などによって正当化する方が安易である。それ以外の方法としては、従来の権力構造を制度化する形で組織を公式に構造化するしかない。しかし必ずしもそれが可能とは限らない。もし非公式なエリートが過去によく構造化されており、かなりの権力を行使をしていたのならば、実現可能である。このようなグループは、非公式な構造における強い結びつきが公式な構造の代わりを十分に果たしていたため、ある程度は政治において効力を発揮してきた歴史がある。権力構造を制度化することはそれに対する公式な異議を招く可能性があるものの、構造化はグループの運営に大幅な変化を与えることはない。構造を最も必要としているグループほど、構造を作る力が最も欠けていることが多い。それらのグループでは、非公式な諸構造はまだ上手く形作られておらず、「構造を持たない」というイデオロギーへの固執により戦術変更をためらう。構造化されていないグループほど、非公式な諸構造が欠けているグループほど、「構造を持たない」イデオロギーに固執するグループほど、政治的な同胞に乗っ取られる危険を孕んでいるのだ。

女性解放運動全体も構成グループの多くと同じく構造化されていないため、同じく間接的な影響を受けやすい。しかしこの現象は異なる姿で現れる。多くのグループは局所的レベルであれば自立して活動できる。しかし全国的な活動を実施できるのは全国的に組織されたグループだけである。そのため、フェミニスト活動における全国的な方針を決めるのは構造化されたフェミニスト団体が多く、そしてこの方針はそれらの団体の優先事項によって左右される。全国レベルでキャンペーンを実施できるのは、NOW(National Organization for Women=全米女性機構)やWEAL(Women’s Equity Action League=女性平等行動連盟)および左派の組織内の女性部会など、全国的に組織された団体のみである。多数ある構造化されていない女性解放グループは、これらの全国的なキャンペーンを支持するかしないか選べるが、自分たちでキャンペーンを立ち上げることはできない。そのため、そのようなグループのメンバーは、構造化された団体の指揮下の部隊となる。公然と構造化されていないグループは、自らの優先事項のために女性解放運動の膨大な資源を利用することなどできない。自分たちが何者であるかを決めることすらできていないのだ。

運動は構造化されていなければいないほど、発展する方向と起こせる政治的行動をコントロールすることが難しくなる。運動の思想が広がらないわけではない。メディアからの一定量の関心と適切な社会的状況が揃っていれば、思想は大きく広まるであろう。しかし、思想が広まったからといってそれが実行されるとは限らない。話されるだけである。個人的に適用できる範囲では実行されるかもしれないが、政治的権力の機能を必要とする範囲では実行されない。

女性解放運動が、友人同士での小規模かつ行動を伴わない議論グループを強調する組織形態に身を捧げている限りは、組織化されていないことによる最悪の問題は感じられないであろう。しかしながらこのような組織形態には限界がある。政治的な効力がなく、排他的で、友人ネットワークに繋がっていないあるいは繋がれない女性たちに対して差別的なのである。階級・人種・職種・学歴・子どもの有無・婚姻有無・性格等により既存のネットワークに適応しない者は、必然的に参加を思い止まらせられる。適応する者は現状維持への既得権益を保持するようになる。

非公式なグループの既得権益は存在する非公式な諸構造によって維持され、その構造内で誰が権力を行使するのか運動が見極める術はない。もし運動が意図的に権力を行使する者を選ばなくとも、権力を廃止することにはならない。権力と影響力を行使する者に対して責任を求める権利を手放すだけである。もし運動が、権力を持つ者に対して責任を求めることができないことを分かっている上で敢えて出来る限り力を分散させているのであれば、あるグループまたは個人が完全に支配することを防ぐことはできる。しかし同時に、その運動が可能な限り無力であることを保証する。支配と無力の何らかの中間地点は見出せるし、見出すべきである。

これらの問題が今局面を迎えているのは、女性解放運動の本質が必然的に変わってきているからである。コンシャスネス・レイジングを女性解放運動の主な機能とするのは時代遅れになりつつある。ここ二年間の猛烈なマスコミによる宣伝と現在多数出回っている書籍や記事によって、ウーマン・リブは誰もが知っている単語となった。女性解放の掲げる問題は多く議論され、どの運動団体にも明確な繋がりがない者たちによって緩い集まりが形成されている。女性解放運動は他の活動に取り組んでいく必要がある。今後は、優先事項を定め、目標を明確にし、連携して目的を追求する必要がある。そのためには局所的なレベルでも、地域レベルでも、全国レベルでも組織化される必要がある。

民主的構造化の原理

「構造を持たない」というイデオロギーに頑なにしがみつくことを止めれば、運動が健全に機能するために最適な組織形態を作ることができる。これは極端に従来の組織形態を盲目的に取り入れるべきというわけではない。しかし盲目的に全て拒絶すべきでもない。従来の手法は完璧ではないが役に立つものもあり、運動内の個々人への負担を最小限に抑えながら目的を達成するためには何をすべきで何をすべきでないかについて手がかりを与えてくれる。多くの場合、様々な種類の構造の試行錯誤を通して、異なる状況それぞれに使える手法を幅広く開発する必要があるだろう。そのように運動から生まれたひとつの案として、ロット・システム(Lot System)がある。全ての状況において適用可能ではないが、役に立つこともある。その他の構造化案も必要である。しかし賢く試行錯誤を進められるようになる前に、構造そのものは本質的に悪いことではなく、過剰な構造化のみが悪いということを受け入れなくてはいけない。

この試行錯誤のプロセスの中で私たちが考慮することができるいくつかの原理があり、それらは民主的構造化において必要不可欠で、また政治的に効果的である。

1)民主的な手順を経て、特定のタスクを実行するための特定の権限を特定の人へ移譲すること。何もせずに人々に仕事やタスクを自ら負わせていては、忠実に実施されない。しかしタスクを実行する人として選ばれたのであれば(できれば本人が関心や意欲を示した上で)、簡単に無視できないコミットメントを約束したことになる。

2)権限を譲り受けた人々は、自分たちを選んだ人々に対して責任を負うことを必須とすること。こうすることでグループが権限を持つ地位に就く者を管理することができる。個人も力を行使することはできるが、どう行使されるか最終決定権を持っているのはグループである。

3)合理的に可能な限り、なるべく多くの人々の間で権限を分散すること。これによって権力の独占を防ぎ、権限を持つ地位に就く者がその力を行使する過程で多くの他者と相談することが求められる。また多くの人に、特定のタスクにおいて責任を持ち、多様なスキルを習得する機会を与えることができる。

4)タスクの担当を色々な人々の間で回すこと。公式であろうが非公式であろうが、ひとりがある責任をずっと持ち続けると、その責任はその人の属人的所有物とみなされるようになり、簡単に手放すことや、グループによって管理することが難しくなる。逆に、タスクの担当が頻繁に入れ替わり過ぎると、担当する者が仕事をよく覚えたり、良い仕事をしたという達成感を得たりするのを難しくしてしまう。

5)合理的な基準に基づきタスクを割り当てること。グループに好かれていることを理由に誰かを役割に選んだり、嫌われているから難しい仕事を与えたりするのは、長期的に見てその人にもグループにも良い影響をもたらさない。人の選定にあたり、能力・関心・責任感が主要な考慮事項であるべきだ。持っていないスキルを身につける機会を与えるべきだが、「一か八か」の手法ではなく「見習い」プログラムのようなものが最適だ。担いきれない責任を負うことはやる気を削ぐ。逆に、上手なことから外されては、能力の育成は促されない。人類の歴史の大部分において女性は有能であることで罰せられてきたからこそ、運動内でその歴史を繰り返す必要などない。

6)情報拡散を全員に向けてできる限り頻繁に行うこと。情報は権力そのものであり、情報へのアクセスは権力を高める。非公式なネットワークがグループ外で新しい思想や情報を広めるということは、グループが参加せずに意見形成の過程を進めていることになる。何が起こっていてどう物事が動いているか知っていればいるほど、人は政治的に効果を発揮できる。

7)グループが必要とする資源への平等なアクセスがあること。これは必ずしも常に完璧に達成できることではないが、達成するよう努力すべきである。必要とされている資源を独占しているメンバー(例えば配偶者が印刷機や暗室を保持しているようなメンバー)はその資源の使用に過度に影響を与えることができる。スキルと情報も資源である。メンバーたちが自分の知っていることを周りに教える意思を持って初めて、メンバーの持つスキルが平等に利用可能となる。

これらの原理を適用することで、様々な運動グループによって作られたいかなる構造も、そのグループによって管理され、またグループに対して責任を負うものであることが保証される。権力の地位に就く者たちは分散され、柔軟かつオープンであり、流動的なものとなる。グループ全体によって最終決断がなされるため、簡単に自分たちの持つ権力を制度化することができない。誰がグループ内で権力を行使するのかを決める力を、グループが持つことができるのである。

原文:https://www.jofreeman.com/joreen/tyranny.htm

この記事は、著者Jo Freeman博士の許可をもらった上、翻訳・転載しています。

翻訳者・校正者(あいうえお順):大澤祥子、鎌田華乃子、佐野はるか、鈴木萌、鈴木由真

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